とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

持たざるを嘆かず

たとえそれをそれと明示的に名指すことができなかったとしても、ある種の情感を伴った経験の存在を理由に、あるものをよいといいまた悪いと評することは日常よくある行いである。価値判断を行う対象に対して、的確で論理性を持った言語表現を当てはめることができなければ、その対象への正当かつ妥当な判断を行なったことにはならない、ということにはならない。確かにそれを他者にわかりやすく伝えることはできないかもしれない。不明瞭で要領を得ない説明しか持ち合わせがないことも往々にしてある。しかしそれでも、適切なことばを持たないというだけでそれに対応する判断や思想までが存在しないと断定することは非常に独断的な暴挙であろう。というのも、そのような曖昧な何かであってさえも、コミュニケーションの中の何らかの位置を占めており、実際非言語的にそれらは明確な意味すら帯びて流通しうるからである。発声や可視化が不可能であるということは、表現や伝達さえも不可能であることを意味しない。沈黙こそが最も多くのことを語りうるという場面は珍しくもない。
千の言葉を持たぬとて、その貧しさを嘆くことはない。たった一つの情緒があれば、寸評を公けにする権利を得られるのだから。