とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

涸れた心根

濡れそぼったような情緒、あるいは永遠不変なる人類の普遍的価値観とやらを、全く意に介さない乾いた精神が存在すると俺は信じる。育ちのよいお嬢様、すなわち件の思想にどっぷりと浸されて育まれた魂が、涙ながらに声を嗄らし、鼻水垂らしてその翻意を説得し、なだめすかし、挙句恫喝を試みたとしても、一寸足りとも揺るがし得ない精神が確固として存在すると俺は信じる。誰もが共感し、誰もが理解し、誰もが何らの躊躇もなく実践するであろう情念と思考を、それは路傍の木石以上に注意を払わない。それは子供の笑顔を喜ばず、性愛と情欲に奮起せず、勝利と栄光を無視し、およそ常人が考えもしない異常な衝動にさえ無関心である。人はそれを涸れているとか、ひび割れているとか、不自然である、不気味であると指弾する。だが、それは涸れているわけでも、ひび割れているわけでもない。その価値を貶めんとする諸々の隠喩は意味をなさない。市民たちの怒号や非難が何になろう、ご婦人方の悲鳴や喚きがどうしたというのか。偉大なる凡夫どもの暴力はその精神を抹殺することはできても、その存在と歴史を抹消できるわけではない。恐怖に痙攣する弱々しい心にはその本質を傷つけることすらできはしない。それは厳然として存在しうる、それは断固として伝播しうる。
もちろん、俺はそのような精神を持ち得ない。俺は人並みに感動し、人並みに涙し、人並みに喜怒哀楽を消費する。それは全く幸福なことであると分かっているが、しかし、そのような精神からすれば、俺の幸福とて取るに足らないちっぽけなものだろう。