とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

空気

空気はなくてはならないものだ。空気は声を届けるからだ。心の震えが喉に伝わり、喉の震えを空気が運び、まだ見ぬ供の鼓膜を揺らす。空気がなければ、誰にも声など届かない。どれだけ喉を嗄らしても、どんなに力を込めたとしても、馬の耳さえそよともしない。伝え、運び、結びつけ、力を帯びて引き寄せる。空気がない場所では、誰しも沈黙を強いられる。
高い高い山の頂は空気が薄い。眼下に臨む雲海にありとあらゆる真理がたゆたい、透明な煌めきがいくつも散りばめられていても、その様子を語ることは許されない。立っているのもやっとのような空間。呼吸もままならず、思考は途切れ途切れになり、世界が歪んで潰れてしまいそうな内圧に、たとえ耐えられるほどの狂気を持ち合わせていたとしても、すべては奪われ、示すことすら叶わない。別の頂に登り詰めた供たちと孤独を分かち合おうとも、悲しみは心を震わせるばかりで何も謳いはしない。頂でしか得られぬものは空気の不在が覆い隠す。
伝達と共有を初めて可能にする機構の存在が、伝達も共有も不可能にしてしまう光景がある。俺はそれを語りたい。しかし、そんな奇跡は神さまにだって起こせやしない。