とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

自然化されえない領域

いかなる哲学も自然化されるべきである、とまではさすがの自然主義賛同者たる俺でもいえない。少なくとも独我論、すなわち純粋な実在論の領域は、いつまでも自然化されえない領域として残るであろう。なぜならそこは科学が成立する前の「手付かずの世界」であり、科学的に組織化可能な知的活動領域とは、人間の脳が自ずから飛び越えてしまっている底のない陥穽のはるか先にある「成型された宇宙」だからだ。世界と宇宙の乖離を解消し、それらを接合しうる人間が存在しうるとは到底思えない。このこと以外の点、つまり、宇宙に関する諸々の知的活動はいかなるものであれ科学的に処理すべきであるという主張には全身で賛成する。というのも、科学的方法論だけが人間に許された唯一妥当な方法であり、最高の手段が望めない以上、最もマシなものを選ぶのは理の当然であると俺は信じて疑わないからである。

政に似て非なるもの

いきなり肩を叩かれて、振り返ると知らない人が立っている。彼はなぜだかにこやかに、片手を上げて挨拶をする。「スマーハ! アリンジャ・ニメロン?」――そんなことばは聞いたこともない。そもそも顔も見たことのない人間に聞き慣れない言葉を投げかけられる所以がどこにあるのだ。これがまだしも同じ文化圏なら救いもあろう。眉をひそめて意図を尋ねれば、こちらの不快が伝わるのだから。不幸なことに、彼のお里は杳として知れない。
俺の不信などどこ吹く風、彼はまだまだ朗らかに、分節化不可能な音の連なりを奏でてくれる。なんと妙なる響き! もう涙が出そう。いっそ愛想笑いでもしてやろうか。誤解されこそすれ、所望のコミュニケーションが成立するとは思えないけど。
いきなり現れた理解不能な隣人とどう接していくべきか? 征服か、融和か、隔絶か。いよいよもって、ことは政治に昇華する。

涸れた心根

濡れそぼったような情緒、あるいは永遠不変なる人類の普遍的価値観とやらを、全く意に介さない乾いた精神が存在すると俺は信じる。育ちのよいお嬢様、すなわち件の思想にどっぷりと浸されて育まれた魂が、涙ながらに声を嗄らし、鼻水垂らしてその翻意を説得し、なだめすかし、挙句恫喝を試みたとしても、一寸足りとも揺るがし得ない精神が確固として存在すると俺は信じる。誰もが共感し、誰もが理解し、誰もが何らの躊躇もなく実践するであろう情念と思考を、それは路傍の木石以上に注意を払わない。それは子供の笑顔を喜ばず、性愛と情欲に奮起せず、勝利と栄光を無視し、およそ常人が考えもしない異常な衝動にさえ無関心である。人はそれを涸れているとか、ひび割れているとか、不自然である、不気味であると指弾する。だが、それは涸れているわけでも、ひび割れているわけでもない。その価値を貶めんとする諸々の隠喩は意味をなさない。市民たちの怒号や非難が何になろう、ご婦人方の悲鳴や喚きがどうしたというのか。偉大なる凡夫どもの暴力はその精神を抹殺することはできても、その存在と歴史を抹消できるわけではない。恐怖に痙攣する弱々しい心にはその本質を傷つけることすらできはしない。それは厳然として存在しうる、それは断固として伝播しうる。
もちろん、俺はそのような精神を持ち得ない。俺は人並みに感動し、人並みに涙し、人並みに喜怒哀楽を消費する。それは全く幸福なことであると分かっているが、しかし、そのような精神からすれば、俺の幸福とて取るに足らないちっぽけなものだろう。

恐怖! 謎の微分方程式!?

先日、こんな出来事があったそうだ。
breaking-news.jp
ニュースの内容も気にならないではないが、個人的には件の教授が書いていたという方程式の内容の方が気になった(一時間近くこれについて調べてしまった程度には)。とくダネ!で紹介されたところによると、「メニューコストと価格の分散の微分方程式」とのこと(ちなみに、放送された画像は別の方程式のものだそうだが、あれも同様の微分方程式だろうな)。
いやー、何がわからんって、「メニューコスト」なる「新ケインジアン派」の「マクロ経済学」の概念はもちろんのこと、それを表す「確率微分方程式」の計算方法なんてもっとわからん。画像の方程式だって、仮に確率微分方程式じゃなかったとしても手では解けなさそうだったし(解像度が低いのと門外漢過ぎて線形か非線形かすら判別できん。線形でも解けない気もする)。あれを見て教授をテロリストだと通報したおばちゃんの恐慌もむべなるかな。
菊川怜さんは画像の方程式を見て「朝飯前」だと冗談混じりにコメントしていたが、建築学科は確率微分方程式も教わるのだろうか? それはともかく、暇のあるときにでもまた調べてみようかな、確率微分方程式(その前に確率論から勉強しなおさなきゃだけど)。

髪の長いの短いの

髪の長いと毛先が曲がる、はねる、逆立つ、くるくる回る。目ん玉擦るしすだれも邪魔で、洗うも拭くも一苦労。手櫛じゃどうにもまとまりつかず、壁や隙間に挟まり抜けて、悲しい痛みが乗っかかる。
短い髪なら手入れもいらず、洗う手間なぞないも同然、濡れても放っときゃすぐ乾く。毛先が汚れを拾うことも、絡まりほつれることもない。冬場の風が頭にくるのと、寝起きにぺたりと寝癖がつくのは、どうにもならないことではあるが。
かといえ坊主はさすがに駄目だ、坊主は家出をするときだけだ。親愛慕情のご縁の数々、捨て去る剛気は俺にはない。
だからこそ、不意にもらった優しさでぺたりと倒れた無様な寝癖を、束の間辛抱しなけりゃならん。いくら短い髪とはいえど、禿げ枯れるにはまだ早い。