離散Hankel変換の計算方法
注意
以下の記述は私的な備忘録であり、内容の正確さに関しては一切保証いたしませんので、悪しからず。
概要
この記事はYu, et al. (1998)およびGuizar-Sicairos and Gutierrez-Vega (2004)によって提案された準離散Hankel変換のアルゴリズムについてのまとめである.詳しくは当該論文を参照のこと.
数式コマンドのリンク回避
はてなブログでMathjaxを使ってTeXコマンドで数式を書いていると、ときたま数式画像が生成されないことがある。以前にも書いたことだが、これははてなキーワードへのリンクが勝手に貼られてしまい、コマンドとして解釈されないためだ。前回は小手先のトリックで何とかしたわけだが、現在はこれは気にしなくてもよくなっている。というのも、すでに2014年の半ば頃からはてなブログのtex記法はデフォルトでMathjaxになっていたらしいからだ。それ以前のtex記法はpng画像化されるため、有り体にいって汚い数式だったためにMathjaxを導入したわけだが、その心配は随分前に無用のものとなっていたようだ。
tex記法の中で書いた文字列にははてなキーワードによるリンクは貼られない。たとえば、Mathjaxを導入した状態で
$\cosh(x)$
と書いてもリンクが貼られてしまい、こうなる($\cosh(x)$)。
一方で、
[tex: \cosh(x)]
とtex記法を使えばもう大丈夫、ちゃんと表示される()。
うーむ、もっと早くに気づいておけばよかったな。情報のアンテナを張るって大事ですね。
空気
空気はなくてはならないものだ。空気は声を届けるからだ。心の震えが喉に伝わり、喉の震えを空気が運び、まだ見ぬ供の鼓膜を揺らす。空気がなければ、誰にも声など届かない。どれだけ喉を嗄らしても、どんなに力を込めたとしても、馬の耳さえそよともしない。伝え、運び、結びつけ、力を帯びて引き寄せる。空気がない場所では、誰しも沈黙を強いられる。
高い高い山の頂は空気が薄い。眼下に臨む雲海にありとあらゆる真理がたゆたい、透明な煌めきがいくつも散りばめられていても、その様子を語ることは許されない。立っているのもやっとのような空間。呼吸もままならず、思考は途切れ途切れになり、世界が歪んで潰れてしまいそうな内圧に、たとえ耐えられるほどの狂気を持ち合わせていたとしても、すべては奪われ、示すことすら叶わない。別の頂に登り詰めた供たちと孤独を分かち合おうとも、悲しみは心を震わせるばかりで何も謳いはしない。頂でしか得られぬものは空気の不在が覆い隠す。
伝達と共有を初めて可能にする機構の存在が、伝達も共有も不可能にしてしまう光景がある。俺はそれを語りたい。しかし、そんな奇跡は神さまにだって起こせやしない。
塵積もる
賢しい人は十五も数えぬ内から賢しい。愚かな人は五十路を過ぎても愚かなままだ。積み重ねた時は、そのまま素直に高さを上げるわけでも、重みを増やすわけでもない。血と熱と力の伴わない履歴の経路に、蓄積される質量の嵩は知れている。無為に流した時空に応じて、ただ埃と塵だけが薄く薄く裾野を広げるように厚みを増していく。長く年経て生き長らえて、積み上げた諸々が芥に尽きるはあまりに寒々しい。歴史の重量は力の偉大さと等価である。打ち立てられないもの、刻みつけられないもの、痕が残るほどに押し込まれないものは、誰にも記憶されないままに吹き散らされてきらびやかに空虚を泳ぐ。忘れられることすら端から不可能な何かに成り下がったものは、誰にも顧みられない、誰にも引用されはしない。
何も知らない若者が、何かを知ったような顔をしている大人を馬鹿にしていいのはそれが理由だ。精々両の掌に、乗せられるだけのありったけをかざして、得意げに微笑むことのできるようにならなければね。