とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

渇きの底

珉道者曰く「宗教者はこんなにも濡れたハートを持っている」。確かにそうかもしれない。ということは、やはり俺の求めるもの、思想的支柱となりうる何かは「宗教」ではないのだろう。俺はむしろ、心の水気をすべて取り除いたとき、渇ききった心がなおも拠り所とすべきものが何なのかを知りたいのだ。
珉道者は「ノミのキンタマ八ツ割程の悟り」がなければ仏教について語れぬという。俺が不思議なのは、なぜこうも悟りという「体験」を重視するのか、ということだ。自然主義的観点からすれば、悟りもまた五蘊仮和合の産物である。それが素晴らしいと思えれば思える程、その価値を減じていくように思えてならない。俺にはもはや健全な心身に宿る状態と、人工的で外的な作用によって再現された状態の区別がつかない。
もちろん、「体験を軽視する心の傾向」もまた一つの心理的傾向には違いない。心の仕組みを明らかにすることは、心が何かを求めているという事実、何かを求めてやまない心そのものを無化するものではない。そういった心を鎮めたいという欲求に仏教は応えてくれるのだから、ありがたいものには違いない。

奇蹟

自然法則を超越した事象の可能性が「奇蹟」なのではない。それ自身驚くべき精緻さでもって運行する自然法則の実在こそが「奇蹟」なのである。神は、人が尊ぶべき神は、奇術師でもなければ詐欺師でもない。ネタを知られて焦るような二流をお前たちは崇めているというのか? 神の威力とは、人々を驚かせ、度肝を抜くための大道芸ではない。水の入ったコップを落とした時、ガラスが割れてバラバラになること、飛び散った水が水滴となり、床にぶつかり濡れ広がること。これらすべてが「奇蹟」であり、「神の息吹」である。目新しい詐術を棄て、古めかしい事実に立ち還るべきだ。預言者たちが、風が語り、空が怒り、炎が踊るというとき、それは騙りでも偽りでもない。「ちょっとした文学的修辞」に過ぎない表現を真に受け、軽々に超自然現象だなんだと右往左往することは、彼らの言葉を蔑ろにし、恣意的に過ったメッセージを読み取ろうとする悪意ですらある。「奇蹟」をプロパガンダに使ってはならない。それは本来素朴で率直な感動の表れであったはずである。

モデルの価値

何かの理想形としてのモデルの価値は、その実在性には依拠しない。理想気体の概念は、それが実際には実在しないにも関わらず、気体の性質や振る舞いを本質的に説明し、実現象をよく近似しうる能力を持っていることから、優れたモデルとして評価されている。同様に、思想のシンボルとしてのメシアや釈尊もまた、その実在性に本質的な価値があるのではない。仮にフィクションだということを自覚していたとしても、彼らのヒストリーに感銘を受ける者は存在する。思想を体現し、よく伝達しうるアイコンとして、彼らは尊崇を受けるに値する。逆説的に、宗教的指導者の実在性に固執する者は、おそらく宗教的熱狂が向かうべき先にあるものとは異なる何かを欲している。

なお残るもの

「宗教の自然化」ということばで何を意味しようと考えているのか、未だに自分でもあまり定かではないのだが、少なくともそれは、自然科学的世界観および価値観の中で宗教的な事物をどのように位置付けるのかという問いであろうと思う。そして、「自然化された宗教」、すなわち、従来の宗教的概念の集合の中から自然化不可能なものを排除していき、依然として残ったもの、なおかつ自然科学的尺度ではうまく扱いきれずにいるものこそが、俺にとって真に重要で探求に値にする問題なのだろうと思う。いつの日か、その異物の自然化が完了したとき、人は個人として宗教的な悩みを持つことはあっても、宗教そのものの正体について悩むことはなくなるのではないだろうか。

錯誤

善良な人間が易々と死に、悪辣な人間がのうのうと蔓延る世間を悲嘆して、「こんな世の中はどこかおかしい」「何かが間違っている」と人はいう。しかし、善悪を平衡する天秤が実在しない以上、何か不特定のものを指してその是非を云々することに意味はない。世の中を形作り、それを営むのは人の所業であって、正しさや間違いがあるとすればそれは人の行いの集積の中にしかない。
善悪を平衡する天秤は実在しない。だからこそ、世の中をよくしようとする人の不断の努力が必要なのであって、神仏の不在を嘆くのは時代遅れだ。