とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

明らめる

思うように躰が動かせなくなった時、俺は悲しみを感じるだろう。俺は医者に尋ねたり、医学書を読むことで自身の不自由さの物理的原因を知ることができる。しかし、その事実を明らめることによって、躰を自由に動かしたいという願望まで諦めることができるだろうか。できはしないだろう。むしろ非現実的な物理的解決策にとらわれ、絶望はいや増すことだろう。単なる理性的判断では怒りと悲しみを吹き消すことができないからこそ、宗教と呼ばれるものが存在しうる。篤信家は事実を知ることによって精神的平衡を実現するのではない。彼は精神の在り方そのものを変えることで、本質的に不安定性を回避するのだ。

手をもみ、祈願せざるを得ない人間に、彼は誤っているとか妄想を抱いているとどうして言えようか

わがまま

痛みを感じている人が「私は痛みを感じていない」と真摯に報告することはできない。それは強がっているとか、痛くないふりをしているだけだ。痛いものを痛くないというだけで、実際に痛くないようにすることができるわけではない。
喜びも一緒だ。確かに嬉しいと感じている人に、「それは本当の喜びではない」ということにどんな意味があるだろう。確かに、そうやって水を差すことで結果的に彼から喜びを奪い去ることができるかもしれない。しかし、その発言は、それがなされる前に実在した彼の喜びの歴史までをも否定できるわけではない。彼はそのときまで本当に嬉しかったのだから。
ある種の宗教的境地によって得られる法悦が、神経細胞の発火の組み合わせとして物理的に還元されたところで、その法悦が実際に喜ばしいものであることを否定することはできない。熱心な信徒にケチをつけることはできても、彼の熱情をなかったことにはできない。
目を開けて見る夢から醒めることができないように、事実として物理的原因から生じる好ましい情動を、あたかも好ましいものではないかのように嘘をついても仕方がないのだ。それは幼稚なわがままであって、人生に何か新しい発見を付け加える類の思考ではない。

渇きの底

珉道者曰く「宗教者はこんなにも濡れたハートを持っている」。確かにそうかもしれない。ということは、やはり俺の求めるもの、思想的支柱となりうる何かは「宗教」ではないのだろう。俺はむしろ、心の水気をすべて取り除いたとき、渇ききった心がなおも拠り所とすべきものが何なのかを知りたいのだ。
珉道者は「ノミのキンタマ八ツ割程の悟り」がなければ仏教について語れぬという。俺が不思議なのは、なぜこうも悟りという「体験」を重視するのか、ということだ。自然主義的観点からすれば、悟りもまた五蘊仮和合の産物である。それが素晴らしいと思えれば思える程、その価値を減じていくように思えてならない。俺にはもはや健全な心身に宿る状態と、人工的で外的な作用によって再現された状態の区別がつかない。
もちろん、「体験を軽視する心の傾向」もまた一つの心理的傾向には違いない。心の仕組みを明らかにすることは、心が何かを求めているという事実、何かを求めてやまない心そのものを無化するものではない。そういった心を鎮めたいという欲求に仏教は応えてくれるのだから、ありがたいものには違いない。

奇蹟

自然法則を超越した事象の可能性が「奇蹟」なのではない。それ自身驚くべき精緻さでもって運行する自然法則の実在こそが「奇蹟」なのである。神は、人が尊ぶべき神は、奇術師でもなければ詐欺師でもない。ネタを知られて焦るような二流をお前たちは崇めているというのか? 神の威力とは、人々を驚かせ、度肝を抜くための大道芸ではない。水の入ったコップを落とした時、ガラスが割れてバラバラになること、飛び散った水が水滴となり、床にぶつかり濡れ広がること。これらすべてが「奇蹟」であり、「神の息吹」である。目新しい詐術を棄て、古めかしい事実に立ち還るべきだ。預言者たちが、風が語り、空が怒り、炎が踊るというとき、それは騙りでも偽りでもない。「ちょっとした文学的修辞」に過ぎない表現を真に受け、軽々に超自然現象だなんだと右往左往することは、彼らの言葉を蔑ろにし、恣意的に過ったメッセージを読み取ろうとする悪意ですらある。「奇蹟」をプロパガンダに使ってはならない。それは本来素朴で率直な感動の表れであったはずである。

モデルの価値

何かの理想形としてのモデルの価値は、その実在性には依拠しない。理想気体の概念は、それが実際には実在しないにも関わらず、気体の性質や振る舞いを本質的に説明し、実現象をよく近似しうる能力を持っていることから、優れたモデルとして評価されている。同様に、思想のシンボルとしてのメシアや釈尊もまた、その実在性に本質的な価値があるのではない。仮にフィクションだということを自覚していたとしても、彼らのヒストリーに感銘を受ける者は存在する。思想を体現し、よく伝達しうるアイコンとして、彼らは尊崇を受けるに値する。逆説的に、宗教的指導者の実在性に固執する者は、おそらく宗教的熱狂が向かうべき先にあるものとは異なる何かを欲している。