とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

Colabolatoryといふもの

先達からjupyter notebookが便利だよと教えられ、色々いじっているこの頃であるが、どうやら去年ぐらいからChrome上でjupyter notebookが使えるColaboratoryなるGoogleのサービスが始まっていたらしい。少し触ってみたが、GUIは(一部?)日本語化されているし、処理系も2系と3系を選べるようになっているので、その道に詳しい方には非常に役立つのではなかろうか。ネットに繋がるならpythonの環境構築をせずとも同様の感覚でブラウザ上からjupyter notebookが使えるのは魅力的だと思う。元々機械学習分野の教育/研究向けらしいが、numpyとscipyが使えるので線形代数を必要とする人々すべてが対象といってもいい気がする(足りないライブラリはpipで追加できるらしい)。ありがたく勉強に使わせていただくとしよう。惜しむらくはsympyが使えるのにinit_printing()できれいな表示ができないことぐらいか(正確にはLaTeXコマンドが表示される)。

長いこと放置してたまにしか更新しないのに、なぜか先月辺りからPVが一桁増えている。毎月100いけばすごいぐらいだったのに1000とかいっててビビった。もちろん、いまでも過疎ブログには違いないのだが、何が起こってこんなことになったのだろうか。謎すぎてけふとし。

明らめる

思うように躰が動かせなくなった時、俺は悲しみを感じるだろう。俺は医者に尋ねたり、医学書を読むことで自身の不自由さの物理的原因を知ることができる。しかし、その事実を明らめることによって、躰を自由に動かしたいという願望まで諦めることができるだろうか。できはしないだろう。むしろ非現実的な物理的解決策にとらわれ、絶望はいや増すことだろう。単なる理性的判断では怒りと悲しみを吹き消すことができないからこそ、宗教と呼ばれるものが存在しうる。篤信家は事実を知ることによって精神的平衡を実現するのではない。彼は精神の在り方そのものを変えることで、本質的に不安定性を回避するのだ。

手をもみ、祈願せざるを得ない人間に、彼は誤っているとか妄想を抱いているとどうして言えようか

わがまま

痛みを感じている人が「私は痛みを感じていない」と真摯に報告することはできない。それは強がっているとか、痛くないふりをしているだけだ。痛いものを痛くないというだけで、実際に痛くないようにすることができるわけではない。
喜びも一緒だ。確かに嬉しいと感じている人に、「それは本当の喜びではない」ということにどんな意味があるだろう。確かに、そうやって水を差すことで結果的に彼から喜びを奪い去ることができるかもしれない。しかし、その発言は、それがなされる前に実在した彼の喜びの歴史までをも否定できるわけではない。彼はそのときまで本当に嬉しかったのだから。
ある種の宗教的境地によって得られる法悦が、神経細胞の発火の組み合わせとして物理的に還元されたところで、その法悦が実際に喜ばしいものであることを否定することはできない。熱心な信徒にケチをつけることはできても、彼の熱情をなかったことにはできない。
目を開けて見る夢から醒めることができないように、事実として物理的原因から生じる好ましい情動を、あたかも好ましいものではないかのように嘘をついても仕方がないのだ。それは幼稚なわがままであって、人生に何か新しい発見を付け加える類の思考ではない。