とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

本当の自分

「自分」という語を修飾する時の「本当の」という語の意味は、「事実である」「真である」というものではない。それは「嘘ではない」「偽物ではない」という意味の価値判断を伴う語であり、換言すれば、本当ではない自分と異なる「快い」「悦ばしい」「満た…

つくづく考えさせられる

問題の核は、その最も肝心なはずの、私自身が感じているこれが、言語的有意味性にまったく関与しないことになる、という点にある。 (永井均、『哲学の密かな闘い』、ぷねうま舎、二〇一三年、三四〇頁。赤字斜体は原文では傍点) この人の本を読んでいると…

他人の救済

信仰の問題においていかに多くの他人が救われるかということはまったく意味をなさない。そんなことは信仰の問題ではない。大衆部は上座部をして迷える人々を置き去りにして自分たちだけ救われようとしている狭量な連中だと誹謗した。いやはや、それのどこが…

名文の植物的循環

名文とは? まずもって華のある、文学的表現に優れたもの、あるいは、明晰で簡潔な論理的美しさを持つものだろう。しかし、真の名文とは花のような文章でなければならない。それはそれ自身として素晴らしい水準のものである上に、それを読んだ各人の心に種を…

「死後」と〈死後〉

死んでしまった後、自分がどうなってしまうのかを気にする人は多い。なぜこのようなことを気にすることができるのか? もっというなら、死んでしまった後にさえ、どうにかなってしまうことが可能であるとなぜいえるのか? それは、ここでいっている「死」と…

神の価値

概念装置としての神には哲学的価値がある。しかし、思想としての神には道徳的価値しかない。原初のとき、言は神であった。この命題は隠喩としてではなく、そのままの意味で解釈されるべきであろう。世界を創造する神の力の片鱗は言語の力として見出されるか…

俺は小説のキャラクターだ、という嘘

「私は現実世界の人間である」と小説の登場人物が発言するときの強烈な違和感を思い出せ。彼はどうしてそんなことがいえるのか。彼は現実に存在しないのに! このことは俺でない人間が〈俺〉について詳しく語るときやゾンビがクオリアについて報告するときに…

生の無意味さ

人の生は無意味であるというとき、全体どんな種類の意味が無いとされているのか。それは人が自分自身に対して行う自己言及的な意味付けである。すなわち、人が「私の生の意味はこれこれである」と断言するとき、その発言は常に偽であるということだ。どれだ…

共有されてはならない感覚

蟻が蟻のように勤勉に労働に勤しむことができるためには、蟻は己が蟻であることを忘れているのでなければならない。機械が一個のシステムとして完成するためには、歯車が所定の位置にぴたりとおさまり、効率的に動力を伝達するのでなければならない。キリギ…

理想の平坦さ

理想主義者が描く境地は平坦すぎて気持ち悪い。世界はもっと不均一で、非一様で、非等方的で、不連続で、非線形なものに溢れている。美しさも醜さも、きれいさも汚さも、それが画一的であるならば、それはハリボテの嘘っぱちでしかないのだ。 ハァ、もっとで…

信仰を諦めるための記述

自分が何を信仰の領域に属する問題と見なし、それらに対してどのような態度表明が必要であると考えているか——それを明らかにするためには、まず自分が何を信じているのかを知らなければならない。ここでいう「信じていること」とは、自身の思考や生活の根本…

宗教と道徳の暴力的類似

史実を鑑みるまでもなく、宗教は暴力的である。宗教の主張が互いに矛盾することが可能な類のものであり、しかもそれを放棄することが生命財産を放棄することにも等しいものである限り、宗教対立の最終手段は紛争に訴える以外にありえない。だから、宗教を暴…

認識の生

その背を打ち据えられ、地面に押し倒された男を、私は知っている 多くの者から怒号を投げつけられ、憤りとののしりの指弾を受けてなお、薄い気味悪い笑顔を貼付けたままの男を、私は知っている 男の不正と無秩序を糾弾し、大挙して男を責め立てる彼らは、や…

無意味という意味の拒絶は何を意味するのか

人の生は無意味である、との信仰に没することは容易い。俺のような人間にとって、それは快い救いのことばである。ところで、不可知主義によれば、生の無意味を断定的に説くことは生に対する外的な意味付けに他ならず、とどのつまり生の有意味を説くことと同…