とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

物理的に埋め込まれた言語

言語学的概念が物理的な環境の中に埋め込まれている、という発想は確かに面白い。温度の実体が分子の熱運動であるように、言語学的概念を直接的に物理学的概念に還元することまではさすがにできないだろうが、類似の発想でもって言語学的現象を解釈することには大きな価値がある。言語を機能させる諸々の要素の内、少なくともそのトークンは確実に物理的実体を持っている。そして、仮にトークンの実体性によって言語学的現象のかなりの部分が実現していると仮定すれば、物理的にそれらを説明することすらできてしまうかもしれない。
これの何が嬉しいか? それは、記号言語という突拍子もない設定に対して、欠片ばかりに過ぎないにせよ、「そういうこともあるかもしれない」という説得力を与えてくれることだ。「力あることば」という発想は伝統的ですらある古典的な設定だが、それに新たな光を当てる思考であるといえる。もっというなら、この発想は「意味するもの」と「意味されるもの」とが同じに次元、同じ水準に存在していてもよいのだという許しをもたらす。記号言語と神の自己認識は、一つの世界の同じ場所、同じ空間を占めている実体のある現象だといってもよいということだ。それならば、意味するものとされるものの次元のずれによる無限背進や断絶といった懸念は薄らいでいく気がする。言語的現象と超自然的現象の「因果関係」というものは、案外自明であるかもしれない。他の多くの人がそうしているように、ことばが力を持ち不可思議を起こすということについて、詳細な設定を求める方が間違っているのかもしれないな。