罰当たり
「罰当たり」ということばが嫌いだ。特に、「宗教に熱を入れすぎてもいいことなんかない」と考えもなしに主張する日本人が、別のことがらについては「何と罰当たりなことをするのか」といっているときが一番滑稽で、一番腹が立つ。宗教を信じるなというなら罰当たりも信じるなよ。人に起こるすべての事件は因果律にしたがった偶然によるものであって、そこに超自然的な要因は存在しない。善事を為した者が幸福に浴したとしても、それは何かに「報われた」わけではないし、悪事を為した者が不幸を掴まされたとしても、それは何かに「罰せられた」わけでもない。善人が幸福になれず、悪人が不幸にならない世の中に悲嘆し、「神仏は寝ているのか」と文句を垂れることに全体何の意味があるのか。蚤の足先分も意味などないのである。罰当たりということばを使うのは大抵が臆病者だ。そういう輩は宗教に対して真摯なわけでもないし、他者や宗教的対象に対する尊敬の念に満ちているのでもない。ただただ自分が不幸にならないように、縋れるものには縋っておけという処世術を実行しているに過ぎない。同属嫌悪でしかないが、俺はそういう奴らが嫌いだ。