とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

困惑

自分がやることを思いつきもしないようなことを他人が平気でやっているのを見たとき、声を荒げて怒ったり、何も言えずに泣いてしまったり、他人事のようにニヤついてみたりする前に、刹那であっても人は驚いているように思う。常であればすぐさま怒りや悲しみや野次馬根性に変わってしまうはずのそれが、何にもならないままに延々残り続けているような状態は、とりあえず困惑とでも呼べばいいのだろうか。俺は困惑の最中にあって、目の当たりにした他人の行いに対して、何とも態度を決めかねている。ことばの上ではとっくの昔に意見表明を終えていたつもりだったのに、いざ現実にその思想を体現する機会を与えられたときには、考えていたはずのこととは異なる感情が浮かんできていた。口だけでなら何とでもいえるというのは確かに本当だ。まさか自分の言動でそれを実感するとは思わなかったけれど。
何事にも触れてはならないもの、踏み入れてはならない領域があると人はいう。俺はそんなものはないと常々思っていたし、考えだけでいえばまだそう思っている。いや、確かにそれはないのだ。ただ、それは言語化されて初めて現れるものなのである。新しい犯罪が生まれると新しい法律ができるように、それは触れられるまで、踏み入れるまでは禁止や制止の対象ではなかったのだ。人はそれを無自覚の内に避け、無意識の内に行わないようにしていたのだ。聖域は、侵された後にようやく禁域となる。だからこそ、最初の罪人は何の制約もなく罪を犯すことができるし、ともすれば罰則さえ適用されはしないのだろう。
気付きがなければ無邪気なままでいられたろうに、気付きを得てしまった今となっては、もはや実体の伴わぬ思弁を吐くことは許されない。いまこそ俺は矛盾のない意見を述べるべきだろう。最初の罪人になってしまわないためにも、思考と血流を常に巡らせていなければならない。さもなくば、俺は迂闊で軽薄なだけの人間だと指弾されるだろう。

燠火のごとく消えぬもの

輝く呼び声が薄れ遠のき、みそぎのみなもとの水涸みずがれた今となっても、人の心を戒め、揺動惑乱を生ぜしめる畏れは未だに心臓を走っている。けだしそれはすでに朽ち落ちた古の似姿をかたどり、朧な影となった威力を鮮やかにふちどる熱い息吹である。我らは、失われたはずのそれを見る、毀たれたはずのそれを聞く。雨垂れが苔生した大岩を穿ち、星々の並びがすっかり様変わりしてしまうほどの年月としつきを経てさえも、割れた大岩は今以て頂に鎮座し、昏い恒星はなおも彼方から光を下ろしている。無常のつねを知り、無限のかぎりを知り、さりとて変転を覚えぬ我らは愚かに過ぎるのか。胸裡に流れる冷めやらぬ尊崇の風は、打ち立てられた御旗が翩翻へんぽんと歓ぶ姿に零れる涙は、いずれも茫漠たる幻でしかないのか。虚ろな力を前にして、我らは頭を垂れ、膝を屈めるのをとどめ得なかった。

詠みやすい文章

噺家の語りなんぞを聞いていると、惚れ惚れするほど歯切れよくことばを繋いでいく様に毎度感心してしまう。湯水のごとくことばを吐き出すなんてのは、少しばかり口が達者でありさえすれば素人様にだってできる真似だが、聞く者が思わず溜め息を吐いてしまうような語りをするというのは生半可なことじゃあない。なんせ喋りが飯種になるほどの一芸である。時に流れるように、時にゆっくりと、声の大小やら抑揚の強弱、高さや低さや濁っているか澄んでいるかなんてのまで気をつけて出しているのだろう。才能と絶え間ない稽古あっての冴えだと思うが、いやはや感じ入るばかりである。
文章でも同じようなことができないだろうか、などとふと考えた。この場合は話としては逆なのだが、つまり、読んでいて気持ちのよい文章、もっというと、詠み上げたときに耳心地のよくなるように書かれた文章というものはできないだろうか。いやできないも何も詩歌というのはそういうものじゃないかとすぐにツッコミをもらいそうだが、これは散文についてもこういう心構えで書いた方がよりよい文章になるんじゃないかという話である。一年かそこら前に読んだ谷崎潤一郎の『文章読本』にもこういうことが書いてあって、いたく共感したのを覚えている。文章を書いたとき、一度それを頭の中で読み上げてみて、調子よく音が繋がっていかないようならことば選びや句読点の位置を変えて修正する、なんてことを俺もよくやるし、そういう観点から文章を直している人もそれなりにいるのではなかろうか。
詠みそのものの善し悪しは当然詠み手の技量によるわけだが、詠み手を固定したときに、多くの場合に気持ちよく詠むことのできる文章には、何か普遍的な形式があるのではないか(もちろん、詠み手の日本人としての文化的背景が共通でなければならないだろうけど)。もしそういうものがあるのなら、それを身につけられればよりよい文章が書けるだろう。確かに文章の第一義はその内容を読み手に伝えることであって、調子がよいだけで中身すっからかんの空文を長々と読ませるのは有り体にいって非人道的である。とはいえ、厳密さにこだわりすぎれば皆がみんな学術論文みたくなってしまうし、分りやすさだけを優先するとこれはこれで味のない心に訴えるもののない文章ばかりで溢れてしまう。少なくとも俺は、できることならより「美しい」文章を書いてみたいと思う類いであるし、そういう文章が巷にもっと増えてほしいと願う輩でもあるのだ。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

LaTeXiTがおかしいときは

自分用の備忘録。
LaTeXiTを使っていて、タイプセットはできるのに出力画像が真っ白で何も表示がないという状況になったので、今の今までずっと放置していた。今日になってまた使いたくなったので原因を調べてみたところ、アップデートによってコマンド設定がリセットされ、pdflatexを使うようになっていた。どうもこれだと俺の環境では動かないようなのでplatex+dvipdfに切り替えたところ、今度はエラーが出てタイプセットすらできなくなった。エラーメッセージ曰く

GPL Ghostscript 9.16: Can't find initialization file gs_init.ps.

だそうである(前回はここで諦めた気もする)。ググってみるとWindowsの場合は環境変数周りの設定が原因だとか出るが、Mac環境なのでようわからん。
そこでもう強引にhomebrewでインストした方を使うようにシンボリックリンクを張り替えてしまった。そしてなんとこれだけで解決してしまった(それって根本的な解決にはなりませんよね?)。当然、問題のあった方のGhostscriptを起動すると上のメッセージがまだ出るわけなのだが、まぁいいや(でも今は、そんな事はどうでもいいんだ。重要な事じゃない)。数式画像が出せればそれでいいんです!
普段意識しないで使える分、Ghostscript周りのトラブルって厄介な気がする。なんにしても、LaTeXiTがおかしなときはGhostscriptを一度疑ってみることをおすすめする。

人を殺さば鬼となり、鬼を殺さば鬼となる

徒然草にこういう一節があるそうだ。

人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見てうらやむは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』とそしる。己れが心にたがへるによりてこのあざけりをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。を学ぶは驥のたぐひ、しゅんを学ぶは舜のともがらなり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
『徒然草』の83段~85段の現代語訳

鬼に同情しろとはいわない。なぜなら鬼は人ではないから。しかし、鬼の真似は鬼を生む。いかに鬼とて粗略に過ぎる扱いは人を鬼となすばかりである。人は鬼ではない。鬼になりたくなければ、人の行いに準ずるべきである。
鬼に同情しろとはいわない。鬼には鬼の扱いがある。さりとて人は鬼の行いをなすべきではない。鬼が人を殺し、人が鬼を殺し、鬼が鬼を殺すのならば、世に人の住む余地など残らぬだろうて。