いまだ迷妄にある
仏教に帰依しないとはどういうことか。それは仏の代わりに神を絶対者として立てることではない。仏教の真髄、すなわち、人生苦の解決が解脱によって為されるという信仰を否定することである。したがって、仏教に帰依しない者は阿弥陀仏や神といった絶対者による他力本願の成就にも意味を見出さない。それらは手法が違うだけで同一の目的に向かって活動する同種の信仰であり、一方の否定は他方の否定に同義である。彼らは何を考えているのか。人生苦は自我を吹き消すことによっては解決されないといっているのか。いや、というより、そもそも人生苦を解消すべきではないと考えているのではないか? ここにはおそらく根本的な価値観の相違がある。それは宗教に自らの光を見る者と、そうでない者の違いである。俺は後者に属するのではないのか。
昔から俺は、仏教を逃走の完成だと考えていた。それは絶対に悪手の及ばない隔地への隠遁を完成させることによって、種々の煩いから解き放たれる教えなのだと。それゆえに俺は違和感を覚えている。なぜそんなところにいかなければならないのか。どうして俺が逃げ、隠れなければならないのか。いや、俺がどんなに隠遁と静寂を望んだとしても、俺はそれを望むべきなのか。それは正当な、真っ当な、健全な思考なのか? 俺はいついかなるときも逃げてはいけないのではないか。隠れるべきではないのではないか。それによって穏やかで安らかな生を得たとしても、その人生は俺にとって犬の糞にも劣るゴミクズのようなものなのではないか。このことに答えが出ない限り、俺は仏教にも、他のいかなる宗教にも帰依しないだろう。俺はまだ、俺の苦しみが何なのか、よくわかっていない。だからこそ、正道を歩むことによってそれが取り除かれると信じるべき根拠を持たない。それが正しい道であると知れるのは、目的地と現在地が両方わかっている場合である。これからどこに向かうべきかが決まっており、いまどこにいるのかがわかれば、正しい道は自ずと定まるだろう。多分、俺はどこに向かうべきかを決めていないし、いまどこにいるのかもわからない。それらがわからない以上、仏教を始めとする宗教が正しい道を指し示しているのかは不定なままなのだ。