とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

ものを知らずと申せども

ここのところずっと、夜寝る前に少しずつ遠藤周作『私にとって神とは』を読んでいる。

私にとって神とは (光文社文庫)

私にとって神とは (光文社文庫)

十日程前だったか、ブックをオフする古本屋で見かけ、実にシンプルかつストレートなタイトルとワンコインというリーズナブルな価格に惹かれて買った。紹介のために貼った上の画像は文庫版のものだが、いま手元にあるのは程よくヤケたハードカバーである。
正直俺はものを知らない人間で、本読みでもなければ教養もないので著者についてはよく知らない。この本以外の作品を読んでこともない。ただ少なくとも、この本はいい本だと思う。何よりも文章が平易で読みやすい。キリスト教徒である著者が、過去に他人から受けたいろいろな質問に答える形で、自分にとってキリスト教とは何か、神をどういう風に考えているかといったことを述べるというもので、とてもわかりやすく書かれてある。肩肘張らない語り口で、たとえば偉い聖職者であるとかその道の大学教授とか受賞歴のある作家先生なんかが厳かに四角四面で教訓を垂れるという感じでは全然ない。素朴な質問に素直に答えるといった普通の雰囲気なので、終始気楽に読めるのがいい。内容も宗教関係の知識がなくても大丈夫なように配慮されている。ただし、著者自身がいうように、主に仏教などの他宗教に対する意見を語っている部分はあくまで個人的なイメージなので、その記述が百パーセント的を射たそれらの解説になっているというわけではない。
俺としては「仏教の慈悲は他者への無関心に通じ、無神論者の憎しみは神への愛に通じる」という部分に共感を覚えた。おそらく仏教の極致であるところの慈悲は無関心には通じないのだろうが(無我の境地を体現した者は一切合切を自己の物事として関心を抱くと思われる。なぜなら世界とは自己であり、自己でない部分はなく、自分と他人は区別はできるが切り離すことのできない同じものの一部なのであるから、お互いに無関係ではいられないし、他人のことも自分のことのように慈しむことができる――という風に思考するのではないかと思われる。それが事実そうなのかは置いておいて)、こういうイメージを未だに仏教に対して持ってしまいがちという感覚はよく理解できる。そう思うと俺はやはり、自我や個人を捨て去るという教えには相容れないのだろうなという気がする(ちなみに、結局のところ無関心で何が悪いのか、という考え方もできるわけだが。ここには著者のいうところの社会道徳と宗教倫理の区別がある。著者は無関心はよくないという感覚を宗教倫理として持ったのかもしれないが、俺はそれを道徳の問題だと思うし、無関心を咎める宗教上の理由は思いつかない)。
まだ全部は読みきっていないが、こういう口当たりがよくて胡散臭くない本ならいくらでも読んでみたいものだ。思い出補正のある秋月龍珉とこれまた最近読んだ下の本と合わせて、俺にとっての人生の指南書がまた増えたことはありがたい(正確には、人生の指針を考える上での参考文献)。まぁ、それをいうと価値観を決定づけたのは青春時代に手を付けてしまった永井均に始まる哲学本の数々なのだが。
誤解された仏教 (講談社学術文庫)

誤解された仏教 (講談社学術文庫)

仏教の真実 (講談社現代新書)

仏教の真実 (講談社現代新書)