とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

溜息

無神論者が必ずしも不敬虔でないことはスピノザが見事に論証しまた自ら体現した。逆にいかなる有神論者も不義暴虐をなしうることは昨今の世情と過去数千年の歴史がまざまざと物語っている。無神論者の犯罪者は当然存在するし、無神論者の慈善家も当然存在する。そして、これはまったくそのままに有神論者にも該当する。無神論と反社会的思想との間に必然的で論理的な結びつきが存在しないことは、健康な精神の持ち主であれば子どもであっても理解可能なことがらであり、ものの道理を弁えた大人であればむしろ知悉してしかるべき常識だと俺は信じる。にも関わらず、無神論を背徳者の堕落した思想と悪罵する不健康な輩は後を絶たない。彼らは全体何を根拠にそういっているのだろうか? もしもそう主張出来るだけの十全な論拠があるというのであれば、そのことそれ自体が背徳者とされる理由なのであって、無神論者であることがその主たる部分でないことは明らかだ。何ら非難されるところのない人間を不明瞭な推論に基づいていたずらに指弾すること、それこそが不敬虔な行いでなくて何だというのか。彼らは今一度、自分が主張しようとすることの意味を胸に手を当ててよく考えるべきである。

ねつがくのちからってすげー!

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈1〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈2〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈2〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈3〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

熱学思想の史的展開〈3〉熱とエントロピー (ちくま学芸文庫)

図書館の新着コーナーにあったので読了。熱力学はいまだに苦手意識があるというか、よくわからないまま放置してる感があるが、やはりこうした歴史的な経緯と合わせて解説されると分りやすい(ごめんなさい正直途中の式の導出とかは結構飛ばしました(汗))。特に熱力学第二法則はエネルギーの散逸のみを意味しているのではなく、物質の散逸をも意味しており、クラウジウスによるエントロピー概念は当初これらの和として定義された、という話はなるほどと思った。物質の拡散によってもエントロピーは増大し、環境汚染を除去し元の状態に復元するためには夥しい量のエネルギーを必要とする、という話はいまでは当たり前かも知れないが、著者は30年前から(あるいはクラウジウスは100年以上前から?)警告していたというのだからすごい。
後はトムソンによる絶対温度の定義がカルノー関数によってなされるという話が興味深かった(やっぱカルノーって天才だわ)。熱力の授業で習ったのかどうかさえもはや記憶も曖昧だが、こうして何度も勉強するというのは本当に大事なことだなぁと思った。昔は一度聞いた話だから飛ばしていいやなんて不真面目に聞き流していたけど、年々自分の不出来さが身にしみて分かるにつれて、何度も何度も繰り返し聞かないと身につかないことが分かってしまった。一生これ勉強ですな。

希うもの

ああ、まったくもって本当に、上手い文章というものを書いてみたい。書きたい。面白い文章が書きたい。ユーモアの光る文章が書きたい。含蓄のある文章が書きたい。人の興味を惹く文章が書きたい。書きたい。自分がいままで読んできた、震える程にすごいと感じた、いずれ名だたる名文の数々のように、人の心を動かし、強く感情を惹き起こす力を持った文章を、書くことのできる能がこの身に欲しい。偉人才人の爪垢だけの分でもよいから欲しい。忙しなく通り過ぎるお歴々の一瞥を、ほんの少しの間ばかり繋ぎ止める程度の魅力でよいから欲しい。欲しい。いやいやしかし、欲しい欲しいとよだれを垂らして手に入るものなぞありはしない。縦令手に入ったとてその質量は高が知れている。何もしないまま何かが得られる世の中ならば、そこかしこに果報を寝て待つだけの怠け者が溢れかえるだろう。その実そうはなっていないということは、いかなる名文も苦悶と憂慮を反復した果ての産物であることの証左であって、駄々をこねても時空の空費であるだけだ。
さあ、すばらしい文章を読もう。たくさんたくさん読もう。心を研ぎ澄ませ、潤いを絶やさぬよう、魅せられるままに情緒を湧き起こそう。学ぶには真似ぶしかない。よいと思った文を読み、よいと思える文を書く。これを続けるより他にない。ああいやまったく、上手い文章を書くのは険しいものだ。

寂静

どんなに耳を澄ましても、あなたの声は聞こえない。どれほど両目を凝らしても、あなたの顔は見つからない。ガラガラとうるさい街の喧騒に、ギラギラとどぎつい電飾の点滅に、あなたは何も残さない、何も謳わない。望みもしない宣伝ばかりがどよどよと押し寄せ、微かな徴を見る影もなく押し流してしまう。使えもしない符号がやたら見事に配列するけれど、肝心要の筆使いはひび割れのように弱々しいまま。ここはこんなにもゴチャゴチャしていて、引き出しが出しっぱなしの工具箱みたいに散在しているのに。誰も彼もが大声で、勝手気ままにぐるぐると口車で発電しているのに。あなたはどこにもいないのだろうか。あなたを探すのは徒労なのか。とても賑やかで騒がしい、活気に充ち溢れた空間の中に、ぼくは延々と配位しない。滑らかな包囲はいかにも取っ掛かりがなく、深爪の連中はスベスベと落体に身をやつす。あまりにもやかましい静けさの中で、耳鳴りが痛々しく響くものだから、ぼくはひたすら寂しさだけに心を傾けた。

科学史っておもしろいよね

科学の発見

科学の発見

図書館にあったので読んでみた。ワインバーグ大先生と大栗先生の名前に釣られたわけなのだが、普通に面白かったです。
今どきの学校では科学史というものはどれくらい教わるものなのだろうか。昔も今も理系の授業というのは好き嫌いの分かれるところではあると思うが、科学史や数学史のような歴史ものは文理を問わず面白く感じられるものではないかと思う。いきなり難しい方程式や概念を教えられてもとっつきにくいばかりで、訳がわからないまま授業に取り残されてしまうのがオチだ。そんなときに、その方程式や概念が導入された経緯や歴史的背景も合わせて説明されると、途端にストンと落ちてくるものがある。というのも、学生の「わからない」の半分くらいは、「なぜそんなものを考えだしたのかわからない」あるいは「どうしてその方程式を解かなきゃいけないのかわからない」という、目的や到達目標の意義を問うものだったりするからだ(もちろん、もう半分は普通に「理屈がわからない」わけだけど)。理論や実験の目的と意義を明確にした上で、その実施に必要な手段について解説するという形で説明されると、より分かりやすい説明になると俺は思う。
まぁつまり、俺も授業で教わるときはもっと歴史的なエピソードを織り交ぜながら教えてもらいたかったなぁという愚痴なのだった。