とつとつとしてろうとせず

ひまつぶしにどうぞ。

いいがかり

キリスト教の贖罪の話は未だにいいがかりとしか思えない。イエスは人々の代わりに人間の罪を贖い、神もまた自らの子を犠牲に人間を許したのだという。でも、それが俺に関係あるのだろうか。俺が何をしたというのだろうか。犯罪者の家族が差別にあうという話…

罪を犯した者は黒と呼ばれ、罪を犯していない者は白と呼ばれる。遠藤周作にいわく、日本人にとって罪とは穢れることらしい。確かにその感覚はよく理解できるように思う。エンガチョとかもそうだし(俺は正直世代じゃない気もするが)、鬼ごっこもそうだ。あ…

ツンデレ坊主

最も誠実な聖職者とは、人生の道に迷い、宗教に救いを求める憐れな民衆に対し、決然といってのける者をいうのではないか、いわく、「いやいや、お前ら宗教とか胡散臭いもんに手ぇ出してんじゃねぇよ。ンな暇あったら働け。勉強しろ。子ども作れ。無理なら恋…

恐怖に踏み留まる

無神論者にとって、唯物論者にとって、死後にすべてが消滅すると信じることは安らぎになる。しかし、なればこそ、そう信じることも俺は拒否すべきなのではないか。なぜ不可知論が最も誠実な態度なのか。それは、死後の世界という経験不可能な(いってしまえ…

果ての家

光射す丘の上、影そびえる朽ち果てた家の、大きな扉の隙間の奥に、小さな四足の椅子の空いているのを見るとき、息を切らし、足を引きずりながら頂きへと至った子どもは、喉を殺して渇いた叫びを上げる。絶望に膝をつき、理不尽への怒りに震える胸を掻き毟り…

科学は宗教か

科学は宗教である、という主張は実に多くの内容を含んでいると思われるため、一概にその是非を問うことは難しいだろう。注意すべきなのは、科学じみた宗教と科学を混同することによってそう主張する場合である。つまり、科学的思考によって導き出される結論…

いまだ迷妄にある

仏教に帰依しないとはどういうことか。それは仏の代わりに神を絶対者として立てることではない。仏教の真髄、すなわち、人生苦の解決が解脱によって為されるという信仰を否定することである。したがって、仏教に帰依しない者は阿弥陀仏や神といった絶対者に…

知りたいこと

俺が知りたいことというのは多分、人の一生涯のうちに全体どれだけのものが手に入れられるのか、ということだと思う。人生は思い通りにはならない。それは人間が無力だからである。これらの事実に反駁はできない。しかし、そこで疑問に思うのは、では人間に…

聖邪の別なく

宗教が善行の動機付けにならないのと同じ理屈で、宗教を悪行の正当化に用いることはできない。神の名の下に悪を為したとしても、罪人が咎を負わなくてもよい理由はどこにもない。戒律と法律は別物である。ゆえにまた、宗教を非難することで悪行を根絶できる…

違和感の正体

宗教の極致が究極的には自我の否定にあるとすれば、俺が宗教に感じる違和感の根本もそこにあるのではないか。キリスト教や浄土真宗が神や阿弥陀如来にすべてを委ねてひたすら祈るように、禅者が壁を前にしてただただ座るように、自我を吹き消し、あるがまま…

強くあれ

俺は自分自身が強い人間だとは思わない。ご多分に漏れず、俺も弱い人間だ。しかし、少なくとも俺は弱さを肯定するような教説にすがりつくべきではないと考えている。明らかに、強いことはいいことで、弱いことは悪いことだ。人は強くあるべきである。強さを…

期待

人生が苦しいのはなぜか。それは幸せと不幸せが半々、まったく偶然に繰り返し繰り返し訪れるからである。幸せだけがあるなら、人生には事実苦しいことはない。毎日を面白おかしく過ごせばそれでよい。逆に不幸せだけがあるなら、それもまた気楽には違いない…

ことばづかい

明確な定義から論述を積み重ねることによって明らかになったことがらは、元となった定義や論述が明確に示されるような語彙によって表現するべきである。安易に「神」や「不死」や「永遠」や「魂」といった人の期待を煽るような語句を用いるべきではない。そ…

甘露を零す

気まぐれに『論考』を読み返してみると、目を引かれる記述があった。 6.4312 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている…

真理<事実

真実の、本当の、真の、本来の……これらのような言葉遣いは、下劣で醜悪な現状に悲嘆し、それを否定してより上等で甘美な状態が存在するはずだと主張する者の物言いにしばしば現れる言い回しである。それは多分に願望を含んだ力のない空論であり、面の皮が厚…

後光?なにそれ眩しいの?

事実問題から価値問題に関する主張を取り出すことはできない。もしそれができるなら、科学者こそ価値問題の是非を決定することのできる唯一の身分であるということになる。実際はそうではなく、科学者はリスクの見積もりまでが仕事で、どの程度のリスクまで…

海辺

とても物静かな人がいて、すごく頭もよくて落ち着いてる。この人は浜辺の波の届かない場所に腰を下ろして、何もいわずに遠くにかすむ地平線をじっと眺めて動かない。僕が思わず、せっかく海へ来たんだし泳いだらと声をかけると、かすかに笑って首を降る。な…

奇跡を見た、だから俺は強盗殺人を決意した

宗教と倫理は別物であり、分けて考えなければならない。いかなる秘跡も善行の動機付けとして完全ではない。「なぜ善いことをしなければならないのか、なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いに宗教も答えるだろう。それでも、それは究極的な答えでは…

無宗教

宗教と宗教文化を区別するという視点は確かに大事だと思った。日本に生き、儒教や神道や仏教に由来する文化を持っているということだけでは、人が儒教や神道や仏教に帰依しているということにはならないのだ。墓参も参拝も読経もすでに生活の一部であり、思…

ないならないで諸手を挙げる

人は悲しい出来事に遭うと、こんな悲しい出来事でも何がしかの意味があるに違いない、と考えたがる。そんなことはない。人はあっさり何の意味もなく幸せに生き、ぽっくり何の意味もなく無残に死ぬ。そこには何の意味もない。もちろん、だからこそその生を人…

単純な誤り

「人生は思い通りにならない」という事実から「だから人生は人間の力を超えた絶対的な存在者に動かされている」と結論付ける文章を見た。これは単純に誤りであろう。前者から後者を論理的に導くことはできない(後者を前提とするなら前者を導けるかもしれな…

慈悲の出処

無我の境地というものが、主観の客観視を極限まで遂行したものだとすれば(それが人が普通に感じることのできる「あの感覚」を究極的に煮詰めたものだとすれば)、なぜ慈悲という心理が湧き起こるといえるのか、俺には分からない。感情移入の能力と自己の世…

重いもの

仏教が真理の飽くなき探求を貪りであると説くなら、仏教は俺を救わない。事実と事実から帰結する法則を網羅し、すべてを論理の下で明らかにするのでなければならない。嘘と偽りを駆逐し、根絶することこそ至上である。その途上で目を背けたくなるような真実…

ポイント還元セールは開始すらしていません

功徳という設定は善悪を平衡する天秤と同じ発想に基づくものであり、天秤と同様存在しない。いかに善行を積み上げたとて超越的な何かに由来する報恩は与えられない。翻って、いかに悪行を振り撒いたとて超自然的な何かは懲罰を与えない。もちろん、社会的な…

落胆した、失望した

ないものをあるといい、あるものをないという。これを虚妄という。死んだものを生きているといい、生きているものを死んでいるというのは明らかに間違っている。見えているのに見えていないといい、聞こえているのに聞こえていないというのは虚偽以外の何物…

科学の妥当性

科学が擁護されるとすれば、人々の生活に寄与する応用的側面によってではなく、その手法の正当性によってでなければならない。科学的思考法がなぜ正しく合理的であると評価されるか。それは科学的思考というものが日常生活におけるそれの延長線上にあるもの…

呪文は馬鹿らしい

意味もよくわからない文句を呆けのようにぶつぶつと繰り返したところで何が解決するというのだろう。口を動かしただけで何が変わるわけでもないというのは大方の人間が知っていることで、それを知らないのは子どもか、子どもの振りをしたがっているだけの怯…

病を得て報いる

素晴らしきもの、得も言われぬものは心のどこかに余裕やゆとりが一欠片でもある内は浮かんでこない。それらが削ぎ落とされ、奪い去られ、痩せ細った眼窩に埋まる濁った瞳がぎらつくような時分になってはじめてぽろりと落ちてくる。絶叫と怨嗟が和音を作り、…

もはや別物

日本において、原始仏教のみが本来の正しい仏教である、とはもはやいえないのだろう。今となっては日本仏教とそれとはほとんど別物であるほどかけ離れている。そんな相手に対してわれこそは本物であるといったところで、意味がない気がする。犬と猿とが互い…

あってもよかった

ああ、勘違いしていた。人生の意味はあってもいいのだ。むしろ明確であればあるほどいい。人が人生において自由を得るためには、明文化されたその目的を一言一句違わずすべて無視すればいいだけなのだから。もちろん、無視すれば大抵の人間に人間扱いされな…